母との最期

母が19日に亡くなりました。

書くのが好きな性分で、これも思い出と、その時のことを書きました。

ただ、この今でも、強靭な精神力を持って人生を駆け抜けた彼女のことを、決して同等ではない私が書くのはどうかな?という思いがあります。

そして、むちゃくちゃに長い文面になってしまいましたが…。

よろしかったら超超絶長い文章を、お読みください。

18日の午前中、私は北陸新幹線に乗っていました。朝姉から、入院中の母の容態が急変したと病院から呼び出された、と報せを受けてのことでした。

東日本大震災の時に初めて倒れてから、何度も倒れる度に蘇っていた母の不死鳥っぷりをみていたので、今度も持ち直すかな。だめかな。と。

病室に到着し母を見ると、酸素マスクをして苦しそうに懸命に呼吸をしていました。

この状態…復活する⁇口には出さずにいたら、姉から一言。

前回はさ、こんな状態でもうダメだって思っていたらメキメキ復活したんだよね!と。

最後の希望の透析が始まり、それに託して疲れきっていたけれどまだやる事がある姉や義兄は家に帰りました。一人病室にいて、母が旅立つことに対する恐怖の感情を外そうと形にしてみたり、ポイッとしてみたり。そんなもの意味あるのかと思いながら、時々、悲しみでも寂しさでもないどうにもならない気持ちのまま、モノ言わぬ母を眺めていました。

翌日、付き添いの為に来てみると、体温も戻って少し呼吸が楽に見えたから、先生や看護師さんが来る前には姉も義兄も家に戻っていました。

先生が来て、何度も何度も今の状況を繰り返し説明してくれているのだけど肝心なところは濁していて。何度も、それで⁇と言いたくなるのを我慢しながら…

やっとこ、透析で腎臓は少し持ち直したけれど、心臓や肝臓には負担がかかっていて血圧も今は薬を使って状態を保っていることや、このまま透析を再開するか悩んでいるという結論までこぎつけました。

先生が病室を後にしてから頭を巡ったのは、さらに極めて厳しい状態になってしまったのかということで、父を早めに会わせる必要があることと、兄にすぐに来てと伝えるかどうしようかということでした。

色々思うところはありました。

だけど、先に姉から大事な事は伝わっていることと最近感じていたことから、母と兄の取り決めについて私が口を出す必要はなく、兄については兄が来ると決めたタイミングがあるはずだと思いました。

そして、肝腎要って言葉。(少し違う)

その2時間後くらいに、先生がもう一度来ました。

今の心臓の状態では透析を再開しない方がいいから、今日はしないということでした。そして中々話したがらない先生だし、みなまで言わずとも理解したことだったけれど、そうすると時間の問題になると。

それは、今際の際に入ったよ。という母からの報せでした。

多分、兄を待っての旅立ちになるのかなと楽観的に思い。

厳しい宣告を受ける、その役目は自分が一人の時に引き受けると決めていたことなんだなぁと思ったり。すると何故か、自分が小さな時から恐れていた時を迎えているはずなのに…。

心の片隅にネプチューンの原田泰造が出てきて、彼の口癖かギャグかのフレーズが浮かんできました。

オッレッにいぃーーー…まあぁかぁせろーーーーぅ‼︎

わけのわからない妄想だったけれど、この言霊が発動した瞬間、大丈夫だとメラメラパワーが湧きました。

母の旅立ちを、最高の形でサポートしよう。

そして、旅立ちについての想像を超えて行こう。

このめくるめく妄想の世界は、病院のそばで、姉一家と母が亡くなった日に昼食をとったイタリアンのお店で脳内イベントとして繰り広げられていたので、誰も知らないんだけど。

昼食後、まだまだ大丈夫そうだと思いながらも父だけは連れてきておこうと義兄が迎えに行く途中、姉と姪が家に帰ってしまった時でした。

心拍や血圧の機械のアラームに慣れた私は、画面に表示された無呼吸の赤字を見て、その時については誰も間に合わないと知りました。

最期に、二、三回懸命に呼吸した後に母は旅立ちに入りました。

ありがとう。頑張ったね。

と肩を持ち、伝えた後は、出来ることをやろうと看護師さんからタオルをもらい身体を拭いたりしました。

姉一家が来て、泣いている側にいたのだけど、全てが最善だったことが腑に落ちていたから全く涙が出ず…。

もう二人いる姪達に会わせたかったと泣きじゃくる姪に、今はとても楽になったんだよ。と言っていました。

   

結局、今際の際を伝えるメッセンジャーの役目を賜わったと思い、役目を果たす度に皆の涙を目にした私が泣いたのは、母を骨にするための扉が閉まった時だけでした。

それも、その涙は悲しいとか寂しいとか母を失ったことに対する感情ではなく、母と私の間に残っていた執着の様なモノを融かす涙の様に感じていて、不思議な涙でした。しかもすぐにトイレに行きたくなり、意識が身体に向いてしまったため、それはすぐに止まりました。

待合室に戻ると、元々泣いてなかった父、涙が止まった兄弟達とその伴侶をよそに…。

姪達四人(カルテットかいっっ‼︎とツッコミたくなる)の号泣合唱団によるレクイエムが中々止まらず。

どういうわけか、悲しみの極に包まれるはずのその場面は、とてもユニークに映りました。

そして、不謹慎ながら棺の中に綺麗な花をたくさん並べた母の隣で、満面の笑みでピースサインをして皆で写メを撮ったりもしていて。

どんな状況も陥ることも楽しむことも、自由でいいんだよ。という言葉が自分の中でリフレインしているのを感じました。

母の弟それから妹、その後の自身の母親を見送る時ですら殆ど涙を見せることもなく。しばらくして可愛がっていたもう一人の弟を見送った時も恐らくだけど、とにかく思い出深い近親者の死に対して鉄のような強さをみせる、というのが私の五人兄弟の長女として生をうけた母に対する印象でした。

なので、私が彼女を見送る際に殆ど感情が伴う涙が出ないのは、そんな母の最期の最後に見せられる娘としての姿、一抹の矜持、のような気がしています。

幼い頃には祖父に守られ、姓が変わってからは父に守られ、老いてからは姉一家に守られ、幸せな79年間だったと思います。

そして、Facebookをやっていないけど、老いていく両親と共に過ごし、結局は全てを受け入れてきた姉一家には本当に頭が下がります。母の最期を引き受けた私の、一過性のものとは比較のしようはなく。ありがとうあるのみです。

いつも母との電話を切る時に言っていた、さようならという言葉。これからは本当の意味で、永遠に使うことはないと感じています。

個人的な人生を済ませて、もっと大きな流れの中に入った彼女とは、さらに深く繋がっていくことになるのだと思います。

私や母を知る人が生きていくことで、物語は続くのかもしれません。

左様なら

母の最期の教え →力を尽くす  

旅立ちに関われた、有難き経験のもとに。

超、超、長文お読みくださり、ありがとうございます(^^)/

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