こんにちは。
ある会社に勤めていた時のことです。
流れが大事な仕事だったのですが、ほんの些細な事を間違えてしまった瞬間に、その間違いに瞬時に気がつく人がいました。
しかも、本当に些細で影響は殆どないようなミスすらも。
ちなみに、私を指導する立場の人は、全く気が付いていませんでした。
なんで分かるんだろうか…。
私の事を何か知っているんだろうか…。
不思議な感覚と、ミスを未然に防ぐ事が出来た感謝の気持ちを感じていました。
いつものように、ランニングチームに参加して坂道を登ってまた下って来た時のことでした。
今迄気がつかなかったバス停の看板は、その人と同じ名前でした。
シンクロに初めて気がつきました。
その後、同じミスはしなくなった時のことでした。
以前指摘された時と同じ状況が来たので、後で聞いてから完成させよう!と、一つの手順を後回しにして作業を進めていました。
ら
最後の手順を、その人と話しながらやってくれちゃっている方がいました‼︎
あれ?なんで?聞いてから…。
ああ。同じミスをしているって思っているんだね。
と、見ていたら、その人が
あ!進めちゃって‼︎
と、一言。
真意はわからないんだけど。
その人は今
見守る
という課題があるんだろうと思いました。
そして、信頼するという、全ての人に共通している課題もありました。
その人の行動の影響を考慮すると、私が自分の想いを口にした方がいいのかもしれません。
でも、私のその時の立場から、その行動があったのかもしれないし…。
結局、何も言いませんでした。
その人が指摘した私のミスは、私の性格の癖によるものでした。なので、有り難いことだったのです。
お礼にちゃんと自分の言葉で伝える必要があったのかもしれないのですが、その時言わなかったという選択があり、それが正解だったので、そうなんだと思いました。
私が誰かにミスをしたと、思われようが、どうだろうが、実際には関係ないのに作業をかってくれた人がいて、全体に及ぼす影響がないのだから、どうだっていいことでした。
ただ
少し信頼して欲しかった。
何を。
私にミスを指摘したあなたを。
聞いて、と言ったあなたを。
これをやって、と、私にみえる形で見えない課題を授けた
あなた自身を。
あなたの課題を、私は出来ません。
あなたの課題を出来るのは、あなただけ。
もしかしたら、それは
神の愛
というものかもしれない。
今になって感じた経験でした。
その時にはわかりもしなかったし、おもいもしなかった。
でも、その時は
今 ここにもありました。
ありがとう。
名前を呼ぶことは一生ないけれど。
心からこの経験を愛します。
余談
その人は、体が弱いのかいつもマスクをしていたんです。
ある日マスクを取った顔を見て、ビックリ‼︎
イエスキリストにそっくり(^^)/でした。
磔顔⁈
なあーんだ。イエス様なら、全てはお見通しじゃん(^^)/
更なる愛と祝福を感じました、とさ。
ちゃんちゃん
今日もありがとうございます(^^)/