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今日は、召されるということについて、引き続き最近ちらっと読んだ本と、目撃した情景を通して書こうと思います。
それは、こちら、「開店休業」吉本隆明著 ハルノ宵子画 。
吉本隆明とハルノ宵子が書いた食に関するエッセイなのですが、最後の方にハルノ宵子が書いた文章について。
父:吉本隆明の最期の様子が書かれているのですが、そのなかで氷の入った水という文題のエッセイがあります。そこに書いてあった、「ただそのままそこに’’有る’だけの言葉だった」というフレーズがあります。それに対して、その一文がその文章全てを言い表しているように思えました。
父:吉本隆明の到達地点を、娘ハルノ宵子も会話を受け止めたことで疑似体験した。何にもないものの中にあるものを感じ取った娘:ハルノ宵子が入れてくれた水を、吉本隆明は、おいしいと思ったのかもしれないなぁ。と。その後を想うと色々な感情があるはずですが、それについては一切表現していません。「その時」、「その場所」が綺麗に切り取られている文章だと感じました。
父:吉本隆明と娘:ハルノ宵子の関係に幸せのかたちがあった。とも。
そして、もう一つの’召される’について。それは月曜日に体験したことでした。
その日は、出勤まで近所のMOSバーガーで過ごしていました。
そろそろ帰らなきゃと、プラプラ家路を歩いていると大きい通りに消防車が。火事じゃなさそうなのになぁと角を曲がって正面を見ると、救急車が真ん中に停まっていました。
ご近所さんだ。どうしたのかな?と家路なので、避けるわけにもいかずそのまま近づくとガラガラとストレッチャーの音が。
振り返ると急病人を載せているのに大して急いでなくて、人数も普段より多い…。なんか不思議だ…。と、ストレッチャーに横わたっている方のお顔が見えました。
明らかに召されていました。
衝撃的だったのでそれ以上は見ないようにしてしまいましたが、とりあえず、もしかしたらもう大分時間も経っていたのかもしれないけれど、光の元に安らかに戻れるように祈りました。
家に帰ってから、孤独死だったんだろうと思い当たりました。もっと顔を見てあげればよかったかな。と考えたのですが、一瞥して祈りを捧げたのが現実だから、それで良かったのだと。
家族、もしくは大事な人に囲まれて召されるのが、一番の幸せかな。と思います。
でも、家族がいない人もいるし、離れて暮らしている人もいるだろうし、人と付き合わなくても平気な人もいますよね。その人の状況が、たまたまそういうだっただけかもしれない。
それでも、救急隊員9人は彼の最期に関わったし、私も彼のデスマスクを認めた。
一人ではなかった。そのことを良かったと思いました。
ここに表すことが、少しでも彼の魂の慰めになりますように…。
お読みくださり、ありがとうございました。
最後、ぶはっ!!!っと笑わせる画像でもあればと思ったのですが…。ごめんなさい。なかったです。